高崎市と姉妹都市を結ぶバトルクリーク市(米国)・承徳市(中国)・ブルゼニ市(チェコ)・サントアンドレ(ブラジル)・モンテンルパ市(フィリピン)が毎年持ち回りで開催している「地球市民環境会議」が、ブラジル・サントアンドレ市で4月23日から25日の日程で開催された。とくに今年は、ブラジル移民百周年という記念すべき年にあたり、現地では様々なイベントが開催され、参加したので報告する。
そもそも移民の始まった背景には、日本国内の景気動向・社会情勢が色濃く反映されている。日露戦争直後(1904年)の日本国内では、長引く不況で街頭には失業者があふれ、一方、ブラジルを中心とした南米諸国では、奴隷開放政策の成立により広大なコーヒー園など労働力が極端に不足し、ここに目をつけた日本政府は、アメリカ・ペルー・ブラジルを中心に国策として移民政策を奨励し積極的に送り出した。その第一陣が1908年(明治41年)4月28日、ブラジル移民船「笠戸丸」として「新天地」をめざす781人の移民を乗せ神戸港を出港、51日間の長い航海を経てサントス航に入港、日本人入植者として移民の歴史の第一歩が始まった。
新天地での成功を夢見ながら希望にあふれ上陸した一行はやがて、日本で思い描いていた生活とは全く程遠い現実を思い知らされる事となる。それは、すでにブラジルでは奴隷制度が廃止(1888年)されていたものの、大規模コーヒー園に3年間の契約労働者(コロノ)として就労した日本人に耕地の支配人や監督は、奴隷時代の風習と労働環境をそのまま持ち込み過酷な労働と非人間扱いを強制していた。しかし、そのような扱われ様にも高い教育と教養そして誇りを持った日本人移民一世たちは、忍耐強く勤勉に助け合いながらその過酷な環境を克服し、次第にブラジル社会では「理想的国民」と大きな評価を受け、以降、今日までのブラジル経済の発展の基礎と、産業・教育・地域社会など全般にわたる分野において中心的役割を果たし、ブラジル国内の社会的発展に確固たる足跡を残し、以来、これまで「レベルの高い理想的国民」として大きな社会的評価を獲得してきている。
このように百年前には51日間の長くて苦しい船上での生活を経てブラジルへ到着した。航空産業の発達した現在の私たちは、4月20日に成田空港を出発、おおよそ14時間をかけてアメリカ東部アトランタ空港に着陸。5時間の乗り継ぎ時間を経て、ブラジル・サンパウロ空港へは11時間。それでも飛行機搭乗時間は約25時間かかる。飛行機という限られた狭い空間に押し込められながら、何とか忍耐でこれを克服し、エコノミー症候群を回避しながら片道2日間をかけブラジルの土を踏んだ。
ブラジルと日本の時差は「マイナス12時間」ある。先ほども紹介したように、4月20日の午後3時30分に日本を飛び立った私たちは、最初の乗り継地アメリカアトランタ空港で再度、4月20日の午後3時を経験する。ここから11時間を費やし4月21日早朝7時、「地球市民環境会議」開催地ブラジルにようやく到着し、念願の第一歩を踏み入れた。過ぎ去った時間が戻るという経験は非常に体力と気力を消耗したが、百年前の先人の意気と志にはただただ頭の下がる思いだった。以降の現地報告は次稿。
現在のブラジル連邦共和国=首都▽ブラジリア。人口=1億8,390万人(日系人150万人、現職の国会議員3人)。面積=850万平方キロメートル(日本の22倍)。国旗▽緑色=森、黄色=鉱物、青い丸=空、星23個=22州と連邦、文字「秩序と進歩」。